昭和の女・令和の乙女、今こそ考える「パートナー」とはなんだろうか?

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    乙女塾

(この記事は「結婚後にトランスジェンダーを告白するということ。妻・パートナーとの向き合い方。」の続きです。まずはそちらからご覧いただけますと幸いです)

そういえば周りで恋愛や結婚をしない人が増えたような気がします。私の感覚としては、半分は恋愛や性愛など、それらに続く結婚そのものに興味や関心がない比較的若い世代の人々。もうひとつは、本当は興味があるんだけれど、パートナーに出会えない、経済的にも難しいという人たちです。

それでも、結婚というと未だに「男性は仕事に出かけて、帰ってきたらご飯ができてお風呂が沸いている」「女性は子供を産み家庭を守る」と考える人たちは少なくないように思えます。

こうした性別に応じた役割を「ジェンダーロール」と呼びます。男は外で稼いで経済的に家を守り、女は家にこもって家庭を守るというのも1つのジェンダーロールです。

それ以外にも会社や政治の重要なポストに女性がすくないこともジェンダーロールの1つだと思いますし、女装は男に尽くすモノという話もその1つかもしれません。

ジェンダーロールは、女性特有のライフステージの存在から生まれたのではないかと推測されます。出産、子育て、介護といったライフステージのうち、女性にしかできないことが多く、特に出産の前後数ヶ月は特に大変ですから。

昭和の男・令和の男

こうしたジェンダーロールは「昭和」や「令和」といった時代に応じてできた価値観ではないか、と私は考えました。

昭和の男

いわゆる「家父長制度」にもとづいた男性像を、女性に押しつけがちな男性をいう。そもそも男性社会は、薩摩藩のそれに見られるように女性を汚らわしく排除すべきとみていた社会も過去にはあり、家庭において、経済的に守っている家長に対して、それ以外の家族は従うべきだと言う考え方がありました。

仕事が100%であり、その仕事で疲れた男性が、ほっと一息を着く場所としての家庭が規定され、食事や洗濯、掃除といった家事は一切しないことが当たり前という価値観があります。

令和の男

経済的にもパートナーである妻をもつ男性は、自分が仕事で疲れてることと、家事をやらないことは別の問題であるという意識をもつ。むしろワンオペ育児・介護でパートナーが詰むことを、心配して積極的に家事に参加する傾向があります。

しかしそれにあわせて、男性にもライフステージがあり、時として仕事をやめたり、介護や人生の試行錯誤をする可能性も主張していて、互いのライフステージを組み合わせて共に生きていくことを望んでいます。無駄に責任感を背負わないのも特徴です。

こうした令和の男像が生まれた背景は男性の圧倒的な経済の優位性がなくなってきたからだと感じています。

昭和の女、令和の乙女


次に女性ではどうか考えてみました。

昭和の女

一般に男性へ経済的に依存して、夫に尽し、家庭を守ることが女性の仕事だと思っている人たちを指すと考えられます。扶養控除内で働きたいという人もその1つかもしれません。

ただ、男性社会に抑圧されてガマンしてる人、その事が当たり前過ぎて受け入れてる人、自らそうでありたいという人それぞれがいて、その事をその当時は否定的に捉える空気はありませんでした。

子育てと家事が自分の生きがいで、未婚の場合、そのような家庭を持てる、経済的な力のある男性を求める傾向があります。その為にも美容は男のためのテクニックだったのでしょうか。逆に家庭に入ると全くメイクをしなくなる人もいます。

家庭に求める価値観は、1+1=1であり、夫と一心同体であることを望む一方、不満があってもそのことを言い出せない傾向にある人たちのことを指しているイメージです。

令和の乙女

背景として、失われた30年による、非正規雇用の問題があります。男性に一方的に経済的依存ができなくなった1990年以降、女性も経済的自立を模索するようになりました。

引き換えに結婚においても、出産という女性にしかできないライフステージは受け入れるものの、その後の子育てはもちろん、介護といったものも、夫婦対等に役割分担を求めるようになっていきます。

そもそも経済的自立は、仕事(キャリア)へのやりがいにもつながり、すぐに結婚をしない、むしろ結婚をしないという価値観も産まれ、晩婚化しました。

経済的に余裕があるため、自分のためにお金をかける意識が高く、男性へ向けたものではなく、自分の意識とモチベーションを上げるために、メイクなどの消費行動をする傾向があるようです。その自分らしい姿を追求することを、女といわず乙女と表現してみました。

家庭に求める価値観は、1+1=2であり、夫は人生のパートナーである。うまく関係性をつくれば仲がいいし、不満がある場合、早々に切り上げて離婚することに抵抗感があまり無いようです。

昭和と令和、男と女という時点で二元論?

当初、この考えを内部に話した時、複数の人からそもそも「男女」とか「昭和と令和」とわける事自体が二元論的ではないか?と指摘されました。

恋愛するも、しないも自由、性愛も結婚も自由です。その役割であるジェンダーロールだって自由、人それぞれ多様性に富んで良いのです。SDGsにおけるジェンダー平等とは、どの様な指向や自認をもとうが、自分らしく生きていく事を認めてもらう社会なのではないかと考えました。

主婦もいれば主夫もいる。やれるほうがやれることをやれるときにやる。役割分担なんて最初から決めない。そんな当たり前の思いやりをもったパートナーシップが求められているのではないでしょうか?

つまり、令和の本質は思いやりと強さだと気がつきました。
(と書くとまた、他のメンバーから「令和は〇〇と決めつける」と言われそうですが……)

なぜこのような考察をするのか

このコンテキストは、LGBTQ+の自分探し、パートナー探しから考察が発端しています。

たとえばトランスジェンダーが、女性と自認している、男性と自認しているということにおいて、重要なことは身体的違和感ではあるものの、表現として社会的なものを含むとき、ステレオタイプな女性像、男性像を意識してないか?ということでした。

そもそも女子になりたい、男性になりたいとおもったときに、その女性像・男性像が明確でないといつまでも模索することになります。自分が目指してるのは昭和なのだろうか、令和なのだろうかと悩んだのです。

なにも昭和的な表現が全面的に悪いわけではないのに、フェミニンなトランスジェンダー女性がその格好を動画や画像でTwitterに投稿すると、ステレオタイプな女性像の押しつけであると攻撃を受けることがあります。

ここで誤解なきよう整理しておきたいのは、なにも昭和性が100%否定されているわけでも、フェミニンな女性像がすべて否定され、ジェンダーフリーにならないといけないというわけじゃありません。鍵は「主体的に」自分らしいカッコや生き方、役割分担をしているかにつきます。

それはLGBにも言えて、過去のように、男性役、女性役的なジェンダーロールをもつ同性カップルはかなり減ったような気がします。互いのよいところを認め合って、自分達らしい役割分担をするのが理想なのではないでしょうか?

相手のジェンダーとは関係はなく、どっちがどっちのジェンダーロールをやってるの的な決めつけは、避けるべきだということがわかるでしょう。

おわりに

たかが百年ちょっとの歴史にとらわれることなく、自分達らしい生き方をすべきということをジェンダー視点から考察しました。これはなにもLGBTQ+の問題ではなく、広くパートナーシップの思いやりの問題だということを確認したいです。

ちょうどこの原稿を書いてるときに、タレントのryuchell さんが妻pecoさんとの夫妻関係を「人生のパートナー」に変更との記事がとびこんできました。こうやって本当のパートナーシップを結べる人が増えればいいですね。

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