マイノリティにレッテルを張るのはやめにしませんか?

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先月、「ランドセルを背負って女装した男が突然スカートをめくり下半身露出」して逮捕されたというニュースがありました。

犯罪を犯した人は批判されてしかるべきです。しかし、こういうニュースがあると決まって

「トランス女性が・・・」とか「女装が・・・」とか無関係だけど同じ、似たカテゴリの人にまでレッテル張りによる批判が始まります。

例えば1人東大の人間が悪さをすれば「東大はテストの点を取れるだけで社会で使い物にならない」とか海外の人間が悪さをすれば「その国とは断交」「外国人は日本へ入れるな」という批判

ゲイと聞けば「自分が襲われるかもしれない」、トランスと聞けば「女より女らしい」「抱ける」という謎の上から目線の決まり文句。

日本人てレッテルを張るのが好きですよね。

同じ様に

「結婚していてトランスするのは・・・」とか

「女性だがトランス女性に襲われたのでトランス女性はくそ」とか

ネットではいろんな誹謗中傷を見ます。

それってどうなんでしょう?

どんなグループにも問題児はいます。どんなグループも多くは平穏を望んでいます。

例えば日本人が海外で事件を起こしたら日本人はくそ、もっと飛躍して地球人は環境を汚染したから地球はくそとか言われたらどう思いますか?いやぁ、「確かにそういう人はいるけれどそれは違うよね」って思いませんか?

自分と関係がない、または理解ができないマイノリティなグループが何か起こすとひっくるめて批判する人間、排除する行為は最も低レベルな対応と私は考えます。

嫌いなもの、苦手なものは人間必ずしもあると思いますが、むしろ、そうであるからこそ知る努力をすべきだし、わからないでも無害ならばほおっておけばいいのでは?

近頃はスポーツ選手の記事で面白いものがありました

「それはスポーツ選手は純朴を求められる」

というものでした。例えば、女子選手がオシャレになったりお化粧するとそこに批判が入る。遊んでる、ぐれた、成績が悪いのはオシャレのせいだといったものです。

根本は一緒かなと思います。

何何はかくあるべき、ではなく…

違うを認める、自分の嫌いや苦手も存在していることは否定しない、それができない価値観の社会は非常に生きづらいです。もちろん我々はそうした見られ方をすることを警戒すべきですが。

そう書いている私も

「日本人てレッテルを張るのが好きですよね。」

と書いているのだから、そこに偏見の指向性を見ている同じ穴のムジナなのかもしれません。くれぐれも偏見の塊にならないように自戒したいと思います。

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