「女装は男に尽くすもの」昭和の女装カルチャーって本当?

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かつて昭和の頃までは新宿二丁目がゲイタウンだったのに対して、女装、トランスジェンダー、ニューハーフといった人たちは二丁目には居場所がなく新宿三丁目を中心にお店を作っていました。

その頃を知るベテランに話を聞くとかつて「女装は男に尽くすもの」という文化があったといいます。本当なのでしょうか?今回は性文化や歴史を研究している三橋順子先生に話を聞きました。

(取材日:2022年12月8日 聞き手:NAO、みなみ)

ーー(乙女塾、以下略)新宿の女装系のお店にはその世界独特の文化やルールがあったというのは本当なのでしょうか?
(三橋先生、以下略)それには「富貴クラブ」と「エリザベス会館」という2つのアマチュア女装世界を知る必要があります。「エリザベス会館」は最近までありましたから(2020年閉店)知っている方もいると思いますが、基本的に女装して外出することはできません。また女装しない男性の立ち入りも禁止でした。室内のサロンで女装者同士が交流をするシステムで、男女のセクシュアルな関係性はありません。

1960~80年代に活動した女装秘密結社「富貴クラブ」は、男性会員がいて、彼らが女装会員をエスコートして外出することが認められていました。つまり、外出がデートの形になるということで、そこでセクシャリティな関係が生じます。「女装者は男に尽くすもの」という文化は、当時の男女関係の投影であると同時に、少なくとも外出時に女装者が男性に経済的に依存している状況(デート費用はすべて男性もち)が背景にあったわけです。


新装なった新宿駅東口駅ビルの前で記念撮影をする「富貴クラブ」の女装者たち(1964年)。
左から、松葉ゆかり、小野悠子、佐々木涼子さん。当時のアマチュア女装界のトップレベル。
エスコートした男性会員が撮影している。

その富貴クラブの副会長で読売新聞社の社員の加茂こずゑさんが、1967年にゴールデン街地区の花園五番街に「ふき」というお店を出します。店名は「富貴クラブ」からとっています。

ところが、「富貴クラブ」はアマチュア主義で、女装を職業にすることは禁止でした。加茂こずゑさんは「富貴クラブ」から除名になってしまい、店名も「ふき」から「梢(こずえ)」に改めます。この「ふき(梢)」が、日本最初のアマチュア女装者と女装者が好きな男性(女装社愛好男性)の出会いの場というコンセプトの酒場になります。「女装バー」の世界の始まりです。


新宿・花園五番街「蕗(ふき)」(1967年)。
店の前に立つのは店主ではなく、名古屋の有名女装者・美島弥生さん。

ーー「梢」は昭和の伝説のお店の1つです。大手の新聞社の方が転身されたということで週刊誌にも載ったとか。かつてはそのお店に出入りすることがその道の「ステイタス」だったとも聞いたことがあります。今の女の子クラブや二丁目の有名店のような形なのではないかと想像できます。

「梢」は、1980年代に入ると経営が傾き、最後は夜逃げ同然で閉店になってしまいますが、1978年に「梢」の隣に開店した「ジュネ」が女装バー世界の中心になり、枝葉を広げていきます。「ジュネ」のスタッフで最初に独立したのが愛沢有紀さんの「嬢」(後に経営者が変わり「粧」)、次が滝さんの「グッピー」、そして「アクトレス」、さらにそこから孫世代のお店として「梨沙」や「DUO」ができるという形でお店の数が増えていきました。

ーーDUOは「女の子クラブ」や「プロパガンダ」のモカさん、アクトレスは後に「(同)アクトレス」「ジャンジュネ」でママをする浜野さつきさん(≠西原さつき)など現代の有名人を輩出していて、その頃からは私が知る時代に入ってきますね。

滝さんの「アクトレス」から独立したのが今も花園三番街にある浜野さつきさんの「ジャンジュネ」です。店名は「ジュネ」の薫ママの許可をとっているので、直系の孫のような存在です。


新宿・花園五番街時代の「ジュネ」(1994年)。
店の前に立つのは、会員の久保島静香さん。

ーー当時、ゲイカルチャーと女装系カルチャーはどういう扱いだったのでしょうか?

全く別です。ほとんど交流はありませんでした。女装系カルチャーは,歌舞伎町のゴールデン街地区が原点で、新宿三丁目の末広亭があるブロック、新宿御苑の北側ブロックなどにお店があり、ゲイカルチャーの拠点である新宿二丁目「ゲイタウン」にはほとんどお店がありません。地理的にほぼ住み分けていました。お客さん(男性)も重なりません。男性客のセクシュアリティが違うのです。

ーー男性のお客さんという言葉が出てきました。その頃の文化として「女装は男に尽くすもの」という言葉を先輩から聞いたことがありますが、これは本当なのでしょうか?

私が新宿の女装世界に出入りするようになったのは1994年頃でしたが、その頃はまだ「女装者は男に尽くすもの」という文化がありました。

当時は、男性主導のセクシャリティが普通でした。男性客が女装者に「おい、ホテルに行くぞ」と言うと、外出してデートという形は当たり前にありました。

しかし、私は「嫌。そういう気分じゃないから行かない」と言いました。「え?、お前、今、嫌と言った?」と驚かれ、「生意気」だと言われました。「ホテルに行きたいならちゃんと口説いて」と当たり前の手順を踏むように言い始めたのは、たぶん私たちの世代からだと思います。

ーー私が聞いていると現在と女性のロールモデルが違う気がしています。

それはやはり、その時代の男女関係の投影でしょう。しかも実際の男女関係の変化がやや遅れて現れる感じ。「ジュネ」の薫ママは、「女をするのなら料理くらいちゃんとしなさい」とはっきり言っていました。「男を捕まえるのは、まず胃袋を掴むのよ」とも言っていました。現在の感覚からしたら首を傾げると思いますが、実際にそれがかなり有効でしたね。

ゲイカルチャーだと乾きものをバスケットに入れてというのが当然なんですけど、「ジュネ」系のお店はそれをしなかった。必ず手料理の突き出しを出していました。

男性客は「薫ママが作る味噌汁がうまいんだよー」って、心を持っていかれるわけです。

入店してきたお客さんにチーママが「(飲み物)何になさますか?」と尋ねたら,冗談で「ラーメン」と答えたら。本当にラーメンが出てきたという実話があります。そのくらいの食材の準備は、いつも冷蔵庫にある。さらに、すごいのは、ラーメンの料金はとらないのですよ。

ーーもしかして、アクトレスやジャンジュネがずっと手作りのご飯出していたのってその流れがあるからでしょうか?昔、二丁目で朝まで働いた後、今日はアクトレスのモーニングビュッフェへ行こう!とみんなで良くお世話になったのですが…。

「ジュネ」のスタッフは、ご飯を作れるのが当たり前だったから、間違いなくその流れですね。

ーー粧さんとか美味しいですよね。

あそこの料理は別格ですけどね。

ーーそこから、00年代後期に入ると「男の娘」ブームが登場します。伝統的なカルチャーではなく、コミケカルチャーからでてきたようなジェンダーやセクシュアリティ(セクシャリティ)とは無関係な人たちです。

90年代にも女装はするけど男は嫌いという女装者はいました。でも、そういう人は夜の女装バーにはあまり足を運びません。

90年代の中ぐらいまでは、女装者に求められたジェンダー・ロールとして、男をきちんと喜ばすことができる、つまり、料理が作れて、床上手(とこじょうず)この2つでした。実際、それなら無敵です。そうしたジェンダー・ロール、良い悪いと言うより、やはり時代の投影だと思います。女装世界から、セクシュアリティの要素が希薄化していくのは、2000年に入ってからです。現代の女装者に「床上手」と言っても、「??」でしょう(笑)。

ーーやはり、そこを変えたのは2010年頃の男の娘ブームだと思います。今度はその寄り戻しか「男が好き」「実はトランス」と言いにくい雰囲気も作ってしまったので難しいところですね。

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